声優への道

 役者の道に足を踏み入れて20数年…。当初は、今となっては考えられないほどの恥ずかしがり屋さんで、人前に立つとガチガチに緊張して心臓がバクバクしてしまうほど極度のアガリ症でした。歳を取って図々しくなった分を差し引いても、よくここまで続けてこられたなぁと自分で自分を褒めてあげたい(笑)

 ここでは、プロの役者に辿りつくまでの道程を、恥ずかしながら紹介させていただきたいと思います。

■とくにやりたいことがない・・・

 高校はそこそこの進学校に通っていたものの、母子家庭だったこともあって経済的な事情から進学は断念し就職しました。進学校ということもあって高校には就職先の紹介案件がほとんどなく、とりあえずアルバイトをして社員登用を目指すか…などと考えていたとき、同級生の親御さんが経営する会社で若い人を欲しがっているというので、お世話になることにしました。

のことでに就職することにしました。拾ってもらった恩義もあり、不平も言わずに一所懸命働いていましたが、学歴のないぼくは、普通に会社勤めすることに限界を感じ、自分の腕一本で食べていく職人のような仕事をしたいと漠然と考えていました。しかし具体的な目標があったわけでもなく、時間だけが過ぎていきました。

 就職して五年目。進学していた同級生たちも就職して社会に出てくると、学歴で劣る自分は、自分も何か動き出さなければ…と焦りを感じ始めました。そんなとき、仕事でトラックに乗って首都高速の渋滞の中をダラダラと進んでいると、「声優募集」という養成所の広告が目に入りました。声優というと、声だけの表現で人を感動させるまさに職人のようなイメージ。貯金もそこそこ貯まっているし、学校があるというならひとつやってみるか、と声優のことをあまりよく知らないまま、腹を決めてしまいました。思い立ったが吉日(笑) そして中途半端はいけないので、それまでお世話になっていた(甘えていた)会社を辞め、背水の陣で飛び込むことにしました。

■じつは極度のアガリ症・・・

 声優についての情報をなにも持っていないぼくは、電話帳(タウンページ)で養成所を探し、勝田声優学院というところに辿りつきました。入所オーディションのとき、極度のアガリ症のぼくは手足ガクガクさせながら、でっかい声を出してごまかしていたのをよく覚えています(笑)

 学院長は、アニメ「鉄腕アトム」のお茶の水博士の声を担当していた勝田久さん。温和なお茶の水博士とは対照的にとても厳しい指導をする方で、「声優の世界は優勝劣敗。生き残れるのは声優志望者のうち一万人に一人」の言葉は今も耳に残っています。また「声優とは俳優の仕事の一つ。マイク前でリアルなお芝居をするということ」とのことで、ここでの三年間は舞台表現の勉強一色でした。覚悟を決めていたぼくは何ごとも自ら進んで取り組み、それによって自分が変わっていくことを実感しました。演劇の面白さ、奥深さにも惹きこまれていきました。

 学院では、日本の文学作品に始まりアメリカンコメディ、ギリシャ悲劇など、様々なジャンルで八本ほどの芝居を発表しました。有難いことに最初の一本以外はすべて主役をやらせていただき、おかげで「極度のアガリ症」から「ちょっと緊張しい」くらいまでは改善されました(笑)

■初めてのお仕事。ところが現場では・・・

 学院に入って半年したころ、学院の関係筋からの依頼で、初めてお仕事をする機会をいただきました。しかも二本も!

 一つ目は、某大学の創立100周年記念で各学部を紹介するビデオのナレーション。とにかく原稿量が多く、しかも言いにくい専門用語がズラリ…。初めての仕事で気合も入り、自分の読みやすいように原稿を書き写して、とにかく練習しまくって本番に臨みました。が、経験の乏しさとアガリ症を隠すことができず、それはそれはガチガチに緊張しまくり……まさしく一行毎にトチッてしまい、今なら一時間で終わるような仕事を五時間くらいかかってようやく解放されたのでした。

 その2~3日後には、RPGゲームのキャラクターボイスの収録。なんとラスボスの役を頂いていたので、先日のナレーション現場での屈辱を晴らすべく、気合を入れ直して収録に臨みました。が! 勉強を始めたばかりで表現力皆無のぼくにラスボス役は荷が重く、何度やってもラスボス感が出せずに、なんとその場で役を降板させられてしまいました。役者としては最大の屈辱……そりゃもうトラウマですね。

 しかしそんな経験があったからこそ、その後の修業に身が入って、今の自分に繋がっているのかもしれません。

■劇団ではなく事務所へ・・・

 学院の発足当初は、優秀な生徒には声優事務所に所属するチャンスがあったそうですが、ぼくが入った時にはそのパイプは廃れていたようです。(そういうことも知らなかったww)そのため卒業後の身の振り方を自分で考えねばなりません。ほとんどの卒業生たちはプロダクションの付属養成所に行くのが常となっていましたが、稀に文学座や青年座などの劇団に進む人もいました。卒業するころにはすっかり演劇に傾倒していたぼくは、劇団に入って演劇を追求していくことも考えましたが、やはり本来の目的を達成するため、声優の仕事に繋がりやすいプロダクションの付属養成所に進むことにしました。

 先生や先輩方に相談し、とくに洋画の吹替で有名だった江崎プロダクションの付属養成所に入ることにしました。もちろん入所オーディションはありましたがなんなく通過。。たぶん、なんなく(笑) 「ここまでやってきて入所オーディションで落ちるようなら、よほど才能が無いんだろうからその時は別の道を考える」と強がっていましたが、合格通知をもらった時はホッとしました(笑)

■声優デビューするも、付き人??

 江崎プロダクション(在学中に社名が変わってマウスプロモーション)の付属養成所では、ほとんどがアテレコ・アフレコの実習でした。演技経験ありの人が集まる養成所だったので、とにかく実践。習うより慣れろ、ですね。在学中からお仕事もけっこうやらせていただきました。そして二年後、見事所属することができました。

 これでバリバリ仕事をやって……とそう簡単にはいきません。仕事は月に一本あるかどうかという状態で、しばらくは悶々とした生活が続きました。そして半年ほど経ったころ、同事務所に所属していた大大大先輩の俳優・穂積隆信さんの出演舞台での付き人を務めることになりました。せっかく声優になったのに、また演劇の道(笑) しかも付き人とは……と思いましたが、どうせ仕事はあまりないし、付き人なんてなかなか経験できないし、急がば回れ、とむしろ喜んでやらせていただくことにしました。楽観主義なんですかね(笑)

■急がば回れのつもりが意外な近道

 付き人といっても役者として少し出番があります。しかし俳優として実績がないので当然端役。それまで主役ばかりやってきたので役作りで苦労することはありません。ここは看板俳優である穂積さんに気持ちよくお芝居してもらうために、自分が目立とうとはせず、付き人として全力でサポートしようと完全に割り切りました。どうやったら穂積さんが気持ちよくお芝居に臨めるか、稽古場ではそればかり考え、ほかの付き人さんの仕事をよく見て、良さそうなものはすぐに取り入れました。

てるてる坊主の照子さん

付き人としての最初の舞台

「てるてる坊主の照子さん」

 ところが、この付き人の仕事が結果的に声優として大きなチャンスとなりました。

 稽古期間中に座組内でちょっとしたオーディションがありまして。芝居のクライマックスに繋がる暗転中に、一分間ほど流れるアナウンサーのMCの声を、若手の中から選ぶということでした。「これはチャンス!」と思うのが新人の心理かもしれませんが、その時のぼくは「声の仕事が得意なはずの声優がこれを落としたら社長に怒られる…」と思いました(笑)

 結果、運よくこの役を射止め、公演の二か月間、芝居の大詰めで暗転の中、ぼくの声が朗々と響き渡っておりました。すると名古屋での公演中、舞台裏で毎日この声を聴いていた座長の佐久間良子さんが、穂積さんに付き従って歩いているぼくの方へわざわざいらして「あなた 声 素敵ね♥」とお声をかけていただきました。「♥」がついていたかどうかはわかりませんが(笑)、嬉しかったのでお言葉の一字一句はっきり覚えています。

 これらの出来事が穂積さんと社長の気を良くしたのか、千秋楽を迎え東京へ戻ると、なんと声優の仕事がごっそり入っていたのです。遠回りになるようなことも腐らず全力で取り組めば、意外な近道に繋がる事もあるんですね。

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